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高齢者大学たき学園 俳句教室だより

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  京都からの玄関口の福住は、伝統建築物地区に指定されて、町並みも見学でき、民家も店も次々オープンしています。昔も今もここには新しい風が吹いています。

 私たち十二名は、福の里コミセンで、毎月、講師のもとで、ありのままの日常を無理のない言葉でよみたいと願っています。

 

    花むしろかかえて上がるお城跡  富田 昌子

 

 春うれい本家にかかる槍・刀   美濃 敏子

 

 花の道北の斜面は三分咲き    足立久仁子

 

 花冷えやランプ見守る手術室   小山 正子

 

 花疲れぬるき湯船や仕舞風呂   足立恵美子

 

 子に送る畝を増やして芋植うる  池上千代子

 

 花咲くや改札口は混み合えり   土井 和子

 

 花見時足痛くとも友の連れ    降矢美枝子

 

 桜咲く空へ球児の大飛球     山鳥 照美

 

 啓蟄やポニと吾して瓶のふた   森田 敏子

 

 吹き留まる落花城址の犬行に   酒井八重子

技と俳句道

九月の最高点句 (九点)として、およその参加者の半分が次の句を選んだ。

靴脱げばさらさらと夏こぼす   作者=堀毛美代子さん

上五、中七まではさらさらと展開。座五を「こぼす夏」か「夏こぼす」で、作者はかなり推敲されたと思う。

「こぼす夏」とすると夏にこぼすことになり、伝統的で平和だが日常的で凡庸な句となりインパクトは弱そう。また類句は無数にありそう。

そこで一転、「夏こぼす」にするとゴツゴツし、頭は倒錯するがその分、句の世界はがらりと変わり、凡庸でなくとてつもなく深まりそう・・・と。

「こぼす」は他動詞で「夏」は目的格か主格となり、人間にはできない「夏をこぼす」

あるいは「夏はこぼす」となり、凡庸に砂をさらさらとこぼしているだけではなく、象徴的、超現実的な奇妙な次元に入るように思える。

このような置き換えやもっと奇抜な組み合わせにより受け手を驚かせる技法《デペイズマン》は、二十世紀初頭、第一次世界大戦の矛盾、非合理、不安、不信のうずまくヨーロッパで始まった。社会的にも芸術的にも行き詰まった伝統的価値観の否定が始まり、絵画や詩が作られた。いわゆるダダイズムは、エロ、グロ、ナンセンスからシュールレアリズム(超現実主義)が流行となり世界に広がる。

この技法《デペイズマン》は日本の俳句界にも広がり「玄鳥」においても、奇を好む人がある。しかし、わが新家先生はここを見落とさず「砂さらさらとこぼす夏」となめらかなナチュラルに戻し、見た目本位の奇抜さ「遊び」をやんわりと指導された。

その先師・拝星子先生は、技では剣豪となった宮本武蔵が佐々木小次郎との闘いでは剣を使わず「人を生かす」剣の道へと変身・成長していく過程のエピソードを繰り返し繰り返し話され、書かれた。そして目を眩ませるのではなく、人と自然の融合した俳句の本道を見失わず、「五七五に命を懸けて磨け」と諭された。

拝星子・新家両先生の根幹的な教えは、今一度しっかり噛みしめ、生かしていきたい。

 俳句や短歌において、類想と類似句を完全に避けることは不可能である。そこで、藤原定家以来、二句までは「本歌取り」として同じ語句を使うことを認めてきた。

前掲の句は

次の石川啄木の歌の「本歌取り」かもしれない。

  いのちなき のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ

ふるさとの山や砂をこよなく愛した啄木の歌の「本歌取り」として読むと「さらさらとこぼす夏」としても余韻は深い。(玄鳥篠山 石田宇則 2012-9-4)

句 会 だ よ り ---篠山句会《玄鳥篠山支部》 《 2012-6-4 》

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  ◆◇◆  六月句会の好評句 ◆◇◆2012

万緑に染まりし朝の仁王          藤本喜久巳

 野、森、山、見わたすかぎり一面が緑。
日々生きいき成長する万緑の朝の風に、仁王像が映える。
仁王はいっそう勢いづき、阿吽の呼吸でその精気を万緑へ吹き返す。
大自然の息吹と仁王の息吹が一つに融けあう。
静中の動が清々しい。
 

風薫る鉄棒下のにわたずみ          新家 保子

「にわたづみ」とも。庭立水と書けば和語であることがわかる。雨が降って、地上にたまり流れる水--漢語では潦。万葉時代から歌われてきた題材。
 この句にも人は表に出てこない。しかし鉄棒の下の僅かなくぼみに、子どもや自分の姿・声・緊張した顔・笑顔・・・が浮かび上がってくる。「風薫る」の季語でこのドラマの質が表現されている。

◆◇◆ 推敲 --- 苦 雅 楽 ◇◆◇

堰落ちる水の光や夏来る           尾嶋八栄子

鯉のぼり風のしっぽを掴みけり       堀毛美代子

サンダルの長き足組む夏帽子        鷲尾 瑞子

閑けさや袱紗捌きに余花の雨        大西佐代子

余り苗ひときわ高く育ちおり         畑中  弘

妹の忌や蛍袋の薄明り            堀毛美代子

漆黒の青田に映る月明かり         岡本 博三

 どの句も心の眼でしっかりとらえている(--線)。一言一文字に、ただ事に終わらない輝きや味の深みがある。
 「漆黒」の「青」はどちらがいいたいのか、読み手はイメージが混乱する。「青田に」を早苗田ではどうか、棚田は・・・推敲の余地・・・の意見あり。

 俳句は詩であり、自分史でもある。日常の無数の現象の中から何を取り上げ、何を捨てるか、自分にしっかり向き合ってとらえ、推敲したい。           (宇則)

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